恵比寿日和
平明にして余韻
声上げて泣きたし サクラまだ咲くな
月曜日の朝、新聞の歌壇俳壇ページを切り取って、電車の中で読むのが長年続いている楽しみのひとつ。
だが、このところこの楽しみの時間が悲しみの時間に変わってきた。
というのも、この数週間、このページで読まれている内容のほぼ9割が今回の震災に対する深い悲しみを詠んでいて、どれもこれも深く胸に迫ってきて、やりきれなくなってくるからである。
わが俳句の師は、俳句でこうした事象を読むのは難しい、そしていい句ができにくいとおっしゃる。
確かに、短歌と俳句を詠み比べるとよくわかるのだが、短歌は悲しみに寄り添うに十分な長さがあるが、それに比べて、俳句という器は、具体的な気持ちを詠むには短すぎ、それでも詠もうとするとなんとも意図的なものを感じさせて、余韻が残らないような気がする。
それでも・・・どうしても...この思いを詠みたくなるのが、俳句愛好者という人たちである。
冒頭の句は、そういう句である。
電車の中で、新聞を読んでいて、ふとしたタイミングで涙腺がプッツリ切れてしまい、涙が止まらなくなった。
これはみっともないと思って、途中の駅で降りて、駅前の桜の下のベンチに座って涙を乾かしながらつくった句である、いやつくったのではなく、できてしまったというべきだろう。
先日の句会で、この句を出してみることにした。
11人がそれぞれ8句ずつ自作を持ち寄り、全88句の中から、その場で8句(そのうち1句は特選)を選ぶ。
つまり88句に対して88の選ばれるチャンスを持っていることになる訳だ。
まんべんなく選ばれそうに見えて、いいと思う句はかなり共通する。
高得点もあれば、全く点が入らないものも出てくる。
この日、この句には、1人だけ点を入れてくれた人がいたが、まあ、結果的には評価の低い句となった。
それでも、一人でも選んでくれた人がいたことは、この日は、無性にうれしかった。
その時の師の講評は、
「ここまで言い切ってはどうかと思う。俳句の良さは平明にして
余韻があること。この句はそれを感じさせない」
確かに......。
ここまで言い切ると、読み手に預けるものが何もなく、自分だけの独りよがりな句になってしまう。
それでも詠まずにはいられない時にできた句は、本来であれば人に見せるべきではないのだろう。
ただ、困ったことに、やっぱり誰かに共感してほしくて、うかうか句会などに出してしまうのである。
目を開けてゐるのだらうか 春の闇 結女
4月の句会の様子は、以下で覗けます。
http://ameblo.jp/emichacha-ameblo/day-20110424.html
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