恵比寿日和
「明るすぎたね」 エネルギーの地産地消について
2011年3月31日
電気をつくっている原子力発電所に電力がなくて事故が起きたとか、
放射性物質を浴びた野菜は「洗って食べれば大丈夫」って、TVで説明されたけど、その水が汚染されていたとか、
笑えない冗談が続く。
ある新聞によると、宮城県の岬のふもとの小さな村に先人が建てた石碑があって、そこには悲惨な津波の経験から「此処より下に家を建てるな」と書かれていたという。
以後、村人はその言い伝えを守り、この度の被災を免れたとあったが、そうしてみると科学技術の粋を集めた想定とその予防策よりも、昔の人の教えが勝(まさ)っていた、ということだろうか。
この震災のさなか、自民党のある議員が「必要なだけ電気のない国なんて先進国とは言えない」と言い切っていて、瞬間、違和感を覚えた。
落ち着いて考えてみると、北朝鮮では停電が頻繁に起きるといった類の報道に接したときに露わになる「我が国では電気はあって当たり前」的感覚を思い出してみれば、この発言も自分自身の中にあるこんな感覚の延長上にある発言だなと思うし、生産業を安定して続けていくためにも電力の十分な供給体制があることは不可欠だろう。
それでも、私が瞬間的に感じた違和感は、「好きな時に好きなだけ、みんなが使いたい放題に電気を使う暮らし方はもういいよね」という気分があったからだと思う。
街頭インタビューで色々な人たちが停電営業の店や駅について「今まで明るすぎたよね」と答えているのを聞くと、多くの人が同じような気分を共有しているのではないか、と思う。
私たちは、これから、もっと賢いエネルギーの作り方や使い方ができるようになるだろうか。
エネルギーの供給を巨大なシステムに頼らなくても、小規模で分散型のシステムが可能なのではないか。
各家庭の太陽光発電をはじめ、スタンドアローンなエネルギー供給のネットワークとか、ローカルなエリアでの代替エネルギーの供給とか。
エネルギーも地産地消ということだ。
私たちの緑化は、地域性種苗になるべくこだわった在来種での緑化を進めている。
(完全ではないけれど)
その向こうには、実は、日本の昔ながらの暮らし方や生活の知恵や文化をなくさず、取り戻したいという思いがあって、それを「在来生活」などと言ってみたりしている。
震災のなかで、エネルギーの問題もまた、地域性を取り戻したい私たちの課題に無縁ではないことを思った。
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