恵比寿日和

私の好きな本 その7 「家守綺譚」

トコトン、トコトン、トコトン・・・・・。
山道を歩いていると、どこか林の奥から太鼓の音が聞こえてきた。
10年以上も前になるが、仕事で岩手県の遠野に通っていたときのことである。

音に魅かれて山の中に分け入ってみると、雑木の切れ目から小さなお社が見えてきた。
その前に、やはり小さな土俵があって、裸ン坊にまわし姿の男の子たちが東と西に分かれて並んでいた。丁度中学生くらいから小学校の低学年くらいだろうか。
背高比べのように、背の高い順に可愛らしく、きれいに並んで向き合っている格好が微笑ましい。
周りには親族とおぼしき大人たち。
取り組みが始まるとヤンヤの喝采である。
ジッちゃんもバッちゃんも声をはりあげて応援している。

「ホレッ!ツヨシ、腰ひくくしてぇ」
「ソレイケッ!」

森の中に突然現れた風景に、一瞬、お伽話の中に迷い込んだような気持になった。
イベントの告知がある訳でもなく、周辺に案内が出ている訳でもない。
この村ではきっと昔から毎年毎年繰り返し、この子供相撲が続けられてきたのであろう。

今でも時々あの時のことを思い出す。
そして、「あれは狐狸の類に化かされたのではあるまいか」と思うのである。

遠野といえば、いわずと知れた民話の里。
柳田邦男の「遠野物語」の舞台である。
河童や座敷童子やオシラサマの伝説は、あの頃も暮らしの中に色濃く残り、息づいていた。

もう亡くなってしまったが、私が遠野に通っていた頃、三浦徳蔵さんという植物の神様のような方がいた。
植物について、それはそれは詳しい爺様だったが、山の中の一軒家を東京の友人とお訪ねした時のこと。
時刻は丁度逢魔が時。薄暗くなっていく刻と息を合わせるように、徳蔵さんが狐に化かされたときのことを語りだした。聞かされた私たちはみんな、背中がゾクゾクしたことを覚えている。

さて、今回ご紹介したい本は梨木香歩さんの「家守綺譚」(新潮社/新潮文庫)である。

主人公は若くして亡くなった親友の生家の留守を守っている。
人が好くて、少々気が弱いが、正義感だけは人一倍の真っ直ぐな気性の男である。
土耳古帝国(トルコ帝国)のフリゲート艦、エルトゥール号の遭難の話が出てくるので、時代は明治の頃であろうか。

物語の中では、庭のサルスベリが主人公に懸想したり、子鬼がふきのとうを集めていたり、河童が衣を失くして困っていたりする。
揚句の果てには、亡くなったはずの親友が、掛け軸を通してこちらの世界へやって来る。
こうしたことが、さしたる不思議とも受け止められず、日々の様子が淡々と語られてゆく。
明治というのはまだまだ、物の怪だのあやかしだのが人々の暮らしの中に生きていた時代でもあるのだろうか。
思うに、こうした怪しのモノたちと日常を共にしている方が、人間の精神は真っ当でいられるような気がする。

この物語の章立てには、「カラスウリ」、「萩」、「リュウノヒゲ」など、植物の名が付けられている。
その中に「セツブンソウ」という一章がある。

主人公は文筆業を営んでいるが、筆が進まない。
執筆にはペンとインキを用いているのに筆が進まないとはこれ如何に?と思い至り、そして、
「文明の進歩は、瞬時、と見まごうほど迅速に起きるが、実際我々の精神は深いところでそれに付いていっておらぬのではないか。鬼の子や鳶を見て安んずる心性は、未だ私の精神がその領域で遊んでいる証拠であろう。鬼の子や鳶を見て不安になったとき、漸く私の精神も時代の進歩と齟齬を起こさないでいられるようになるのかもしれぬ。ペンが動かぬ、というよりは筆硯塵を生ず、と云った方が少なくとも私の精神に馴染む」などと感慨にふけっている。

そこへ久しぶりに亡き親友が床の間の掛け軸からやってくる。
友に「おまえは人の世の行く末を信じられるのか」と問われて主人公は
「ペンとインキか。人の世はもっと先までゆくだろう。早晩鬼の子など完全に絶えてしまうだろう。長虫屋などの商売も追いやられてゆくに違いない」と思いながら「分からない」と呟く。

親友が去った後の床の間には「見慣れぬ純白の繊細な造りの花」が落ちていた。
「下界にまみれぬ清澄な気配」を放っている。
その白い花、セツブンソウを拾い上げながら主人公は思うのである。
「成程これでは深山の奥にしか棲息できない」と。

時代は「ペンとインキ」をも遙かに通り越して、パソコンだのスマートフォンだのが主流となった。
世の中はどこもツルリと明るくなって、鬼の子も河童も竜もついぞ見かけることはない。
そうして、私たちの精神は、一体那辺を彷徨っているのだろうか。

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